未来へ届け! 愛のジュノー便

1943年ジュノー博士はジュネーブに戻り、翌年の6月、赤十字に勤めていたユージーンと結婚します。幸せな結婚生活も長く続くことはありませんでした。1945年、ジュノー博士のもとに駐日首席代表として日本へ行ってくれないかとICRCの声がかかります。博士は身ごもっていた愛妻ユージーンをジュネーブに残したまま日本へ向かうことを決めます。

日本軍が博士に許可した入国ルートはカイロからシベリア、満州を経由して東京に入るという大変な迂回路でした。
途中奉天収容所で、ジュノー博士は日本軍が面会することを拒み続けた連合軍のパーシヴァル、ウェンライト両将軍、そしてスタルケンポール司令官の3人と瞬時であるにせよ会談を持つことに成功します。博士のこの行動の根底には自らの危険を省みることなく、ただひとを愛し、ひとの命を慈しむ赤十字の精神が流れていたのです。「またお会いできて嬉しいです、ムッシュー・ジュノー」。後にジュノー博士は横浜でパーシヴァル将軍とウェンライト将軍に再会します。

8月9日、約2カ月の旅路を経て、博士は漸く東京に降り立ちます。広島に原爆が投下された日から3日後のことです。
博士は大森収容所に拘留されていた連合軍捕虜の解放を進める傍ら、原爆の投下された広島の情報収集にも努めます。投下直後にはアメリカのラジオ放送や新聞が原爆の威力を大々的に報道していました。日本の新聞も筆舌では尽くしがたいその破壊力を報じていましたが、数日後、一切の報道が禁止されるようになります。

「青く晴れあがった空に突然、目の眩む閃光が走りました。熱風と烈火がすさまじい勢いで地表を襲い、市街は火の海と化しました。さっきまで一緒にいた人が炭の塊になっていました。全身の皮膚は溶け、服が体に貼りつき、人々は水を求めて川に飛び込みました。死者の数は不明です。20万人を超える人が死傷するという大惨事でした。死傷を免れた人々も、これまで経験したことのない奇妙で不可解な症状に悩まされ、数千の命が毎日失われています」。

博士が耳にする情報は人から人に伝えられたものでしたが、その内容は現実のものとは思えない、耳を塞ぎたくなるものでした。 9月1日、外務省は初めて博士に広島の写真を見せます。そこには6000度の熱風に飲み込まれたこの世の地獄が写し出されていたのです。
次の日、広島へ派遣した調査員から電報が届きました。「恐るべき惨状ノノ街の90%壊滅ノノすべての病院が倒壊または修復不能な大損害を被る。仮設病院に収容された負傷者への器材、包帯、医薬品は完全な欠乏状態にありノノ連合軍上層部からの特命を求め直ちに街の中心部へ救援の落下傘を投下するよう要請されたしノノ緊急行動を要すノノ」。それは、10万を超える人が一瞬でこの世から消え去り、今なお10万を超える人々が十分な手当てを受けることができずに苦しんでいるというものでした。

博士は写真とこの電報を持ってGHQへ駆け込み、救援の交渉を行いました。交渉は難航しますが、5日後、マッカーサー元帥から回答が届きます。「米軍は直接救援活動には従事しない。しかし15トンの医薬品と医療資機材を提供する」。元帥の決断の背景にメ連合軍の恩人モであるジュノー博士への感謝の気持ちが溢れていたことは否定できません。9月8日の朝、15トンの医療品を積んだ6機の米軍機が厚木飛行場から飛び立ちました。博士は広島上空にさしかかったとき、眼下に広がる「象牙のように輝く白亜の砂漠」を目にします。

博士は被害調査にあたるとともに、自らも治療活動に携わりました。博士がもたらした15トンの医薬品のなかには日本にはまだ導入されていなかったペニシリンなどが含まれており、日本の医師たちはその効果に驚いたということです。博士がいなければ助からなかった命がいくつもあったのです。博士はまさに、広島の恩人というにふさわしい人物でした。

博士自身が長崎へ赴くことはできませんでしたが、医薬品等の救援活動を指揮し、ここでも多くの命を救ったと記録が残っています。

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